photo: 関 康隆 Yasutaka Seki Photography
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「通い船」の作者、普久原朝喜とは
「通い船」を作詞作曲した普久原朝喜氏は、多くの音源をレコード化したことから通称、チコンキーふくばる(蓄音機の普久原)とも呼ばれ、沖縄県民に親しまれた。生誕90周年の1993年に「近代琉球民謡之祖」と刻まれた普久原朝喜顕彰碑が、沖縄市に建立され、その偉業を現在に伝えている。
1927年に、出稼ぎ先の大阪市で太平マルフクレコードを創業し、沖縄の古典音楽から新民謡まで幅広いジャンルのレコードを制作。沖縄民謡にバイオリンやギターなどの西洋楽器、日本標準語(ヤマトグチ)による歌詞を取り入れるなど新たな試みを行い、「世宝節」、「無情の歌」、「移民小唄」などの名曲を生み出した。
1942年、戦争によりレコード制作の中断を余儀なくされる。1945年終戦。大阪にいた朝喜は、「懐かしき故郷」を制作。戦後初めて関西で開かれた沖縄県人の集いで発表され、全員が涙した。沖縄に帰りたくても船は出ない。故郷を想う気持ちを代弁した歌だった。
「通い船」が誕生した背景
1951年、サンフランシスコ講和条約によって、沖縄はアメリカ統治とされ日本と分断。そんな最中、1951年11月、沖縄-神戸間に「黒潮丸」が戦後初就航する。朝喜はいてもたってもいられず、神戸まで「黒潮丸」を見に行った。神戸港と那覇港を結ぶこの船は、日本と沖縄を結ぶ唯一の航路だったからに他ならない。待ちに待った船の就航を歌った歌、それが「通い船」だ。その喜びは、この歌詞にこう表現されている。「御万人と共に 此ぬ船に乗やい懐かしぬ港 出ぢて行ちゅんサー那覇と 大和ぬ 通い船よ」。
1959年、「通い船」(歌 喜納昌永)、カップリング「ちぶみ(津波恒徳作曲)」(歌石原節子・城間ひろみ)でEP盤がリリースされた。時代は、ジュークボックス全盛期で大ヒットを記録。戦後民謡レコード第1号の大ヒット曲となった。「通い船」は、戦後の沖縄を代表する希望の歌だったのだ。
作詞・作曲 普久原朝喜
1)嬉しゃ懐かしや 振別りぬ港 何時までぃん 肝に染めてでむぬ
サー那覇と大和ぬ 通い船よ
2)御万人と共に 此ぬ船に乗やい 懐かしぬ港 出ぢて行ちゅん
3)あまた思事ん 打ちとけて互に しばし寂しさん 忘して行ちゅさ
4)さやか照る月ん 波風ん静か かわて親兄弟ぬ 名残り立ちゅさ